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4月25日(木) 下山門・生の松原界隈-歴史ロマンを訪ねて-


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 4月25日(木)の「西区歴史探訪ウォーキング」のご案内です!!
予定コースは

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日  時:4月25日(木) 09:30~15:00 少雨決行!!
集合場所:JR下山門駅 (案内人がお待ちしています!!)
参 加 費 :300円 (資料・保険代、当日集金します!!) 
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 約6Kmのウォーキングとなりますので、服装履物などに留意されて
ご用意ください。また、弁当飲み物なども各自でご持参ください。

 申込は、参加者の住所+氏名+電話番号+年齢(保険手続の為・必須)
4月25日分と明記の上、下記にハガキにてお申し込みください。

4月1日市政だより ~陽春の歴史探訪ウォーキング~_b0398563_16124504.gif
〒814-0032 早良区小田部7-20-15-202
西区歴史よかとこ案内人事務局 三苫秀隆 宛



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 多くのご参加をお待ちしています!!

# by akomeyokatoko | 2024-03-04 09:32 | 定期ガイド

元寇の役から750年を期して、「生の松原元寇防塁」を学ぶ

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 2024年は文永の役(1274)から750年になります。
鎌倉時代の一大事件であり、我が福岡市は元軍が上陸した場所でもあります。
 文永の役後に再度の襲来に備え鎌倉幕府は、香椎から今津まで約20Km
に亘り「石築地(後に元寇防塁と呼ぶ)」を築きました。

 弘安の役(1281)での元軍再度の襲来では、「元寇防塁」により
見事に撃退することが出来ました。現在はその一部が発掘保存され
「生の松原海岸」には発掘調査後、約100mに亘って復元され
うち約50mが当時の規模で復元されています。

 以上が、「生の松原元寇防塁」についての簡単な説明ですが
本日は「元寇の役後750年」を期して、現地にて元寇の役、同防塁を学び
今後の歴史案内の向上に向けて、研修する運びとなりました。

 生の松原界隈には「神功皇后伝説」にまつわる史跡・伝説
「壱岐神社、逆さ松伝説、稲荷社等」があり、加えて市内でも指折りの
風光明媚な海岸線でもある松原に伝わる伝説や歴史についても
学ぶことになると思います。
 その上本日は、成人の日の祝日。お天気は上々、絶好の研修日和です。
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 以上が研修のコースで、JR下山門駅に11時集合。
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快晴の「成人の日」の今日は、こんな華やかな振袖姿が見られそう
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JR下山門駅集合、コースの概略を聞く

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松の内の正月八日とは思えない陽気

 まずは「壱岐神社」に向かいます。
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松の内らしく「壱岐神社」社殿を飾るバナー
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説明板に「逆松」石碑の写真が見える

 生の松原に鎮座する「壱岐神社」
日本書紀によると、武内宿祢(たけのうちのすくね)は、帝の命で
筑紫の国に下ってきましたが、異母弟の甘美内宿祢(うましうちのすくね)の策謀で
謀反の疑いをかけられ、帝から刺客を差し向けられます。

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 宿祢の無実を信じる家来の壱岐直真根子(いきのあたいのまねこ)
宿祢によく似ているので、身代わりとなって自ら命を断ちます。
その後、武内宿祢は甘美内宿祢と「盟神探湯(くがたち)」で対決!
見事に無実を証明します。
この直真根子を祀ったのが、「壱岐神社」です。

「盟神探湯(くがたち)」とは、事の是非・正邪が決しにくい時に
神に誓約して、熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷をせず
よこしまな者は火傷をするとされた神明裁判のこと。
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 次は「生の松原」に向かいますが、博多湾には以前は↓でわかるように
風光明媚な松原が点在していたのですが、都市化・宅地化の波が押し寄せて
次々と消えていきました。それでは、「生の松原」は・・・

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 大正11(1922)年九州大学の演習林となり、研究林として利用されてきました。
現在はその 1/3 が福岡市の都市公園(福岡市指定緊急避難場所)となっており
松原の管理には、近接する中学高校のボランティア活動など
多くの市民も協力しています。つまり、「生の松原」官・民・学の
力を合わせて守り継がれている白砂青松なのです。

 では地名の由来を
壱岐直真根子(いきのあたいのまねこ)を祀る「壱岐神社」
近くに建っているから。
神功皇后が三韓征伐の折、海岸に松の小枝を逆さに挿して
戦勝を祈り、その枝が生きて栄えたことから「生の松原」
名づけられた。
 その後「逆さ松」は枯れてしまい、幹だけが「壱岐神社」に奉納されています。
現在、海岸に「逆松」の石碑が建てられていますが
逆さ松にそって生えた松だといわれています。
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 さて、松林の中をメンバーの一人岡﨑さん先導で
分け行くと石囲いがあります。
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松林の中の石囲い

 岡﨑さんは以前松原の中の「逆松」があったとされる石囲い
発見しようと試みられたのですが、枯草(コセンダングサ・ヌスビトハギ等)に阻まれ
発見に至らなかったそうです。ところが、本日は草も枯れて
参加者の前に石囲いが出現!石囲い前で岡﨑さんの説明に耳を傾けました。
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 生の松原の説明でもう一つだけ
 柳猛直氏の「福岡市歴史探訪・西区編」に
━1480(文明12)年に、ここを訪れた飯尾宗祇(連歌師 1421-1502)はその紀行文
「筑紫道記(つくしのみちのき)」に~生きよとて、さしたまいけん松は
はや朽ちて (中略) 社壇の右の方に大なる松の、しかも姿常ならず神さびたるあり。
これぞ末遠く生の松ともいうべかりける~と記しているが
この松も益軒が「筑前国続風土記」を書いた元禄年間(17世紀末から18世紀初め)
には、なくなっていた。「宗祇が生の松原というべかりけると言いし松も今は見えず。
昔の逆松のありし所のしるしとて、その所に松を植えて垣ゆい回せり」
(「筑前国続風土記」)━

 石囲いが宗祇の見た「社壇の右の方に大なる松」なのか
益軒が記した「昔の逆松のありし所のしるし」なのでしょうか?
「筑前国続風土記拾遺」にも記述があるのですが・・・。
肝心の「生の松原元寇防塁」はすぐそこに、時間がありませんので
「元寇防塁」へ一同は向かいます。

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低い雲が流れ、美しい博多湾
きれいに整備された「生の松原元寇防塁」

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ー元寇750年記念事業ーのバナーがはためいています!

 文永11(1274)年蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、健治2(1276)年
博多湾の海岸線に石築地を築き、再度の襲来に備えることにしました。
おかげで、弘安4(1281)年の蒙古再襲来を防ぐことが出来
後に私たちはこれを、「元寇防塁」と呼んでいます。(九大の中山平次郎博士が命名)

 積み上げられた石の種類が、西側は長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)
東側は小戸岬一帯の砂岩ときれいに分かれています。史料によれば
この付近の防塁構築は、姪浜が肥前国、生の松原が肥後国とあり
この石材の違いは、両国の分担地区を示す可能性があるとも言われています。(福岡市の文化財より)

 それにしても、元寇750年記念事業」+スタンプラリーのおかげなのか
以前とは段違いに「防塁」が見学しやすくなっているのにはビックリ!
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説明板、その傍らにスタンプラリーのバナー
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アンゴルモアとは?たかぎ七彦氏による元寇を描く本格歴史アクション
2020年11月8日、松浦市での元寇サミットを思い出します。

 防塁の前には、肥後の御家人竹崎季長が活躍する様子を描いた
陶板の「蒙古襲来絵詞」(2021年に国宝指定)があります。
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陶板の前で説明

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弘安の役(推定)の状況が分かるように作られたパネルの前で

 少し高いところから見ることしか出来なかったのが、間近まで降りて
当時の人々と同じ目線で海岸線を眺めることが出来
博多湾を埋め尽くしたであろう、蒙古の軍船を想像していしまいました。

 さて、説明の最後にあった三回目の元寇についてですが
二度にわたる日本への侵攻の失敗に、クビライは激怒したということで
三回目の元寇の準備がすすめられたのですが・・・
中止を諫言する者が多かった。
②日本侵攻前にベトナムに出兵するも、敗れてしまい
南方に対しては柔軟路線に転化することになった。
③旧南宋から反乱がおこり、その鎮圧に五年も要した。
④反乱鎮圧後、クビライは再度の日本遠征を計画するも
崩御し、計画は中止された。
結局、クビライの死後、元の国力は衰退し日本への侵攻は無かった。

 なるほど・・・広大な版図とさしもの勢力を誇った元も
クビライの死後は衰退に向かい、日本への侵攻などは
考えられなくなったのですね。

 では、「弘安の役」後の防塁は・・・
弘安の役後も再襲来に備えて、防塁工事や破損個所の
修復が続けられました。それらは御家人には大きな負担となり
ましたが、防塁の維持は鎌倉幕府滅亡の前年元弘2(1332)年まで続きました。
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こちらは以前の生の松原元寇防塁

 時間が来てしまって、「稲荷社」の説明が出来なかったのは残念でしたが
それにしても750年記念事業への期待がいやがうえにも上がる
貴重な研修でした。

# by akomeyokatoko | 2024-01-08 20:41 | 研修

今年もよろしくお願いします!

 2023(令和5)年5月8日からコロナは「5類感染症」になり
マスクなしでの史跡案内が実施出来ました。
モチロン、残念なことに天候による催行中止もありましたが
順調に実施することが出来ました。

 そして、迎えた2024(令和6)年1月1日、福岡市西区の天気は
朝から小雨勝ちで、初日の出を拝むことは出来ませんでしたが
穏やかな元旦の一日でした。

 今年こそ天候にも恵まれ、催行中止もなく
予定する歴史案内がすべて実施出来るようにと、祈念いたしました。

今年もよろしくお願いします!_b0404299_15554422.jpg

 「あこめの会」では本年最初の史跡案内として
3月29日(金)”-さわやかな春の桜の下、歴史の町姪浜・愛宕を歩く-!
を予定しております。
詳細はこのブログでも紹介致しますし、市政だよりにも掲載の予定です。
皆さまの参加をお待ちしています


# by akomeyokatoko | 2024-01-01 15:44 | 福岡の歴史

愛宕山観音寺訪問

 姪浜辺りでは桜の隠れた名所として知られている真言宗「愛宕山観音寺」
メンバー5人で訪れ、副住職からお話を伺うと同時に
ご本尊「勝軍地蔵尊」をはじめ、諸仏を拝観してきました。
この日は前日来の雨が上がり、天気は曇り。境内は雨に濡れていました。

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雨に濡れた境内
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本堂内部
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勝軍地蔵尊と諸仏

 「観音寺」愛宕山の麓、蛇岩の上に位置し、昔から竹の山観音として
地元住民に親しまれてきました。由来について「西区の宝」によると

━955(天歴9)年、別当東林寺として建立し、1632(寛永11)年別当円満寺として建立。
京都愛宕山より、勝軍地蔵尊を勧請し、愛宕権現と称し、明治維新により
神社と寺院は分離、円満寺は観音寺と公称され、現在にいたる。
修業時代の弘法大師像、十三仏像、勝軍地蔵像、数々の仏像が安置されている。━

 とあるのですが、今回の訪問で1987(昭和62)年7月29日
「本堂と隣家全焼」愛宕山観音寺の法難を知り、驚くとともに
納骨堂を残して、全山を焼失という事態から2年後の
1989(平成元)年4月に新しい勝軍地蔵の開眼と本堂落慶という快挙に
驚きを隠せませんでした。この危機に立ち上がった
ご住職のご家族、檀家信徒関係者の方々の弛まぬご努力に
諸仏・尊像を前にして深い感動を覚えました。

 ここで今更ながらですが、「勝軍地蔵大菩薩」について
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境内に佇む二体の「勝軍地蔵尊像」
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良く知られる「勝軍地蔵尊」画像

 「勝軍(しょうぐん)地蔵」は、一説によると坂上田村麻呂東征の際
戦勝を祈って作られたことからおこったという地蔵菩薩。
鎧・兜を身に着け右手に錫杖、左手に如意宝珠を持ち
軍馬にまたがっている。これを拝むと戦いに勝ち、飢饉・宿業などから
免れるという。鎌倉時代から戦国時代にかけて武士に広く信仰された。
尚、観音寺の「勝軍地蔵」は、福岡大仏の作者でもある大仏師・高井琮玄氏の御作
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「十一面観音菩薩像」
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「愛染明王像」 右「不動明王像」

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仏師・西田法雲僧正作「秘鍵大師」
 
「秘鍵大師」は、弘法大師・空海が袈裟をつけ
月輪中に「般若心経秘鍵」を所持し、八葉蓮華上に座し、右手に「鍵」
紅色の円形の後背があるもの。

 境内に目を転じると、水子地蔵像、十三仏像、弘法大師修行像などがあり
特に、古い石仏が集められているのについて
詳しい案内を求められたことがあったのですが
この辺りで見つかった古い石仏を集めたと話してきたのですが・・・
今回図らずも「篠栗四国八十八ヵ所」との関連が分かりました。
これも副住職から伺ったのですが
「篠栗四国八十八ヵ所」は、江戸後期に尼僧・慈忍さんが発願したのが始まりで
その慈忍さん、この地に入山し「四国八十八ヵ所霊場」各札所
本尊石仏を彫り、境内に祀られたのだそうです。
その当時の境内は広く、石仏は各所に安置されましたが
長い間の風雪やがけ崩れなどの自然災害で
その場所も定かでなくなってしまいました。
しかし、先代ご住職が一体、一体と見つけて来られて
いまでは、このように境内に集めて安置されています。

 また、桜の名所となった所以についても
1926(大正15)年に、姪浜婦人会が中心となって有数の桜花植樹をされた
というお話を伺いました。桜花も100年近い風雪に耐えてきたのですね。

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三枚とも今年3月29日の「観音寺」

 次回の歴史ウォーキングには今回伺ったお話を生かして
「愛宕山観音寺」の変遷とその困難の数々をガイドできることだと思います。


# by akomeyokatoko | 2023-12-12 16:30 | 姪浜の歴史

熊本一日研修


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 コロナ五類への移行も手伝って、研修に「熊本」を選びました!
11月も半ばを過ぎたというのに、気温は高め。天候も申し分なく
予定通り、8:30に姪浜中央公園を出発。
最初の目的地・熊本城に到着したのは10:30頃。

 「桜の馬場・城彩苑」から階段を上がり、入城するのですが
入城料をまとめて支払おうとすると、ガイドの方から「福岡市在住ですか」と声がかかり
どうしたことかと尋ねると、何と!「福岡市在住の65歳以上は無料です」
ほとんどの参加者がこの要件に該当。免許証やマイナカードなどを提示して
無料で入城出来ました!
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入園料ではなくて、入城料と当方はこだわった!

 調べてみると「鹿児島市・熊本市・福岡市・北九州市交流連携協定事業」により
65歳以上であれば、各市の施設が無料や2-7割引で利用できるというのです!!
素晴らしい交流連携協定ですね。

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天守へ向かう途中で記念写真
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大体同じ場所の2年半前の姿


 ご存じのように、熊本を二度の地震が襲ったのは今から7年前の2016年4月14・16日。
熊本城も甚大な被害を受け、建造物のほとんどが倒壊や破損し
地震前の姿に戻るのは、現在では2052年と言われています。
しかし、天守閣に限っては2021年6月全体の復旧が完了し
展示も全面リニューアルされました。
 実は2021年4月16日に熊本城を訪れていて
その際の写真と比べてみてください。

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作業車と柵に囲まれた大天守
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大天守・小天守に観光客は見られない
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被災の様子を伝える案内板と往時の姿の熊本城
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数寄屋丸二階御広間
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有名なハート石

 では、本日の写真は以下になります。
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 黄様した熊本城のシンボル「銀杏」が青空に映えて本当に美しい。
熊本城の別名が「銀杏城」と言うのも頷けますね。
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下から見上げると黄葉のシャワーのよう

 広場に待機していた同業者?(ボランティアの「くまもとよかとこ案内人」)から
この銀杏にまつわる逸話を聞く。

①籠城の際の食料にと清正公が築城時に植える。(この木は雄木で、城内を知らない者が後世に創った俗説)
②亡くなる時、清正公はこの樹が天守と同じ高さになった時、何か異変が起こるであろうと
予言し、それは奇しくも、1877(明治10)年、西南戦争であった。
③西南戦争で天守や本丸と共に焼失するも、焼け残った根元から脇芽が成長し大木となった。

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熊本城主だった細川家々紋・九曜と加藤家々紋・蛇の目
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九曜と蛇の目を使い美しく照り輝く
 
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天守内部の展示
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「肥後名花」厳しい規律と武士の誇りで守られた花は美しい

 天守見学後は、「桜の馬場・城彩苑」に戻り、お土産等々を購入し
次の目的地「小泉八雲熊本旧居」
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 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、1891(明治24)年11月、第五高等学校(後の熊本大学)に
英語教師として、島根の松江中学から赴任し、1894(明治27)年10月までの3年間を熊本で過ごしました。
熊本に来て最初に住んだ家がこの旧居で、この家を借りるにあたって
ハーンは特に注文して神棚を設け、毎朝神棚に向かって柏手を打って礼拝し、人力車で学校に通っていたそうです。
それほどハーンは日本と日本人の心を深く愛していました。

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 また、日本を世界に紹介した「知られぬ日本の面影」「東の国から」などの著書は
熊本での生活から生み出されたものだそうです。
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説明に耳を傾ける

 良い時間となりました。「ランチタイム」です。

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熊本名物・からし蓮根
 ランチ後、「水前寺成趣園」
快晴の青い空に映えて、何と美しい・・・パンフレットにある通り
優美な大名庭園です。
細川家初代・忠利から三代・綱利にかけて作庭が行われ、1671(寛文11)年に完成し
陶淵明の詩に由来する「成趣園」と名付けられました。
水前寺の由来は、豊前・羅漢寺から熊本に来ていた住職・玄宅のために
設けた一寺が「水前寺」でした。
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阿蘇の伏流水が湧き出る池
 園内の「出水神社」で御朱印をいただきました。

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 「水前寺公園」に続いて、水前寺肥後細川文化発信拠点「湧水亭」に行くはずが・・・
何と!水曜日は定休日で、見ることが叶わず・・・残念!!

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こんなところなんですが・・・

 そこで、園から徒歩10分ほどの「夏目漱石第三旧居」へ向かうことに
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園内の漱石・句碑「湧くからに流るるからに春の水」

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 1896(明治29)年、第五高等学校の英語教師として熊本にやって来た漱石は
熊本滞在中の4年3か月で6回も転居したそうです。そのうち、この大江の家は五番目に移り住んだ家で
最も長く暮らしたのだそうです。漱石は当時、新婚でこの家で長女の筆子が誕生しました。
鏡子夫人はこの家が一番良かったと後に語っています。

 最後の目的地を後に帰福します。
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熊本ではこんなマンホールの蓋を見つけました。
 帰路は特に混むこともなく、午後5時半
出発地の姪浜中央公園に到着。お疲れさまでした!!
12月の月例会は11日。会議終了後に「忘年会」の予定です。

# by akomeyokatoko | 2023-11-22 20:47 | 研修