2024年は
文永の役(1274)から750年になります。
鎌倉時代の一大事件であり、我が福岡市は元軍が上陸した場所でもあります。
文永の役後に再度の襲来に備え鎌倉幕府は、香椎から今津まで約20Km
に亘り「石築地(後に元寇防塁と呼ぶ)」を築きました。
弘安の役(1281)での元軍再度の襲来では、「元寇防塁」により
見事に撃退することが出来ました。現在はその一部が発掘保存され
「生の松原海岸」には発掘調査後、約100mに亘って復元され
うち約50mが当時の規模で復元されています。
以上が、「生の松原元寇防塁」についての簡単な説明ですが
本日は「元寇の役後750年」を期して、現地にて元寇の役、同防塁を学び
今後の歴史案内の向上に向けて、研修する運びとなりました。
生の松原界隈には「神功皇后伝説」にまつわる史跡・伝説
「壱岐神社、逆さ松伝説、稲荷社等」があり、加えて市内でも指折りの
風光明媚な海岸線でもある松原に伝わる伝説や歴史についても
学ぶことになると思います。
その上本日は、成人の日の祝日。お天気は上々、絶好の研修日和です。
以上が研修のコースで、JR下山門駅に11時集合。
快晴の「成人の日」の今日は、こんな華やかな振袖姿が見られそうJR下山門駅集合、コースの概略を聞く
松の内の正月八日とは思えない陽気
まずは「壱岐神社」に向かいます。松の内らしく「壱岐神社」社殿を飾るバナー説明板に「逆松」石碑の写真が見える
生の松原に鎮座する「壱岐神社」
日本書紀によると、武内宿祢(たけのうちのすくね)は、帝の命で
筑紫の国に下ってきましたが、異母弟の甘美内宿祢(うましうちのすくね)の策謀で
謀反の疑いをかけられ、帝から刺客を差し向けられます。
宿祢の無実を信じる家来の壱岐直真根子(いきのあたいのまねこ)は
宿祢によく似ているので、身代わりとなって自ら命を断ちます。
その後、武内宿祢は甘美内宿祢と「盟神探湯(くがたち)」で対決!
見事に無実を証明します。
この直真根子を祀ったのが、「壱岐神社」です。
「盟神探湯(くがたち)」とは、事の是非・正邪が決しにくい時に
神に誓約して、熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷をせず
よこしまな者は火傷をするとされた神明裁判のこと。
次は「生の松原」に向かいますが、博多湾には以前は↓でわかるように風光明媚な松原が点在していたのですが、都市化・宅地化の波が押し寄せて次々と消えていきました。それでは、「生の松原」は・・・
大正11(1922)年九州大学の演習林となり、研究林として利用されてきました。現在はその 1/3 が福岡市の都市公園(福岡市指定緊急避難場所)となっており松原の管理には、近接する中学高校のボランティア活動など多くの市民も協力しています。つまり、「生の松原」は官・民・学の力を合わせて守り継がれている白砂青松なのです。
では地名の由来を①壱岐直真根子(いきのあたいのまねこ)を祀る「壱岐神社」が近くに建っているから。② 神功皇后が三韓征伐の折、海岸に松の小枝を逆さに挿して戦勝を祈り、その枝が生きて栄えたことから「生の松原」と
名づけられた。
その後「逆さ松」は枯れてしまい、幹だけが「壱岐神社」に奉納されています。
現在、海岸に「逆松」の石碑が建てられていますが
逆さ松にそって生えた松だといわれています。
さて、松林の中をメンバーの一人岡﨑さん先導で分け行くと石囲いがあります。松林の中の石囲い
岡﨑さんは以前、松原の中の「逆松」があったとされる石囲いを
発見しようと試みられたのですが、枯草(コセンダングサ・ヌスビトハギ等)に阻まれ発見に至らなかったそうです。ところが、本日は草も枯れて
参加者の前に石囲いが出現!石囲い前で岡﨑さんの説明に耳を傾けました。
生の松原の説明でもう一つだけ
柳猛直氏の「福岡市歴史探訪・西区編」に
━1480(文明12)年に、ここを訪れた飯尾宗祇(連歌師 1421-1502)はその紀行文
「筑紫道記(つくしのみちのき)」に~生きよとて、さしたまいけん松は
はや朽ちて (中略) 社壇の右の方に大なる松の、しかも姿常ならず神さびたるあり。
これぞ末遠く生の松ともいうべかりける~と記しているが
この松も益軒が「筑前国続風土記」を書いた元禄年間(17世紀末から18世紀初め)
には、なくなっていた。「宗祇が生の松原というべかりけると言いし松も今は見えず。
昔の逆松のありし所のしるしとて、その所に松を植えて垣ゆい回せり」
(「筑前国続風土記」)━
石囲いが宗祇の見た「社壇の右の方に大なる松」なのか
益軒が記した「昔の逆松のありし所のしるし」なのでしょうか?
「筑前国続風土記拾遺」にも記述があるのですが・・・。
肝心の「生の松原元寇防塁」はすぐそこに、時間がありませんので
「元寇防塁」へ一同は向かいます。
低い雲が流れ、美しい博多湾きれいに整備された「生の松原元寇防塁」 ー元寇750年記念事業ーのバナーがはためいています!
文永11(1274)年蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、健治2(1276)年に
博多湾の海岸線に石築地を築き、再度の襲来に備えることにしました。
おかげで、弘安4(1281)年の蒙古再襲来を防ぐことが出来
後に私たちはこれを、「元寇防塁」と呼んでいます。(九大の中山平次郎博士が命名)
積み上げられた石の種類が、西側は長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)
東側は小戸岬一帯の砂岩ときれいに分かれています。史料によれば
この付近の防塁構築は、姪浜が肥前国、生の松原が肥後国とあり
この石材の違いは、両国の分担地区を示す可能性があるとも言われています。(福岡市の文化財より)
それにしても、「元寇750年記念事業」+スタンプラリーのおかげなのか
以前とは段違いに「防塁」が見学しやすくなっているのにはビックリ!
説明板、その傍らにスタンプラリーのバナーアンゴルモアとは?たかぎ七彦氏による元寇を描く本格歴史アクション2020年11月8日、松浦市での元寇サミットを思い出します。
防塁の前には、肥後の御家人竹崎季長が活躍する様子を描いた
陶板の「蒙古襲来絵詞」(2021年に国宝指定)があります。
陶板の前で説明
弘安の役(推定)の状況が分かるように作られたパネルの前で
少し高いところから見ることしか出来なかったのが、間近まで降りて
当時の人々と同じ目線で海岸線を眺めることが出来
博多湾を埋め尽くしたであろう、蒙古の軍船を想像していしまいました。
さて、説明の最後にあった三回目の元寇についてですが
二度にわたる日本への侵攻の失敗に、クビライは激怒したということで
三回目の元寇の準備がすすめられたのですが・・・
①弘安の役のダメージが大きく、高麗や沿岸部の疲弊も著しく
中止を諫言する者が多かった。
②日本侵攻前にベトナムに出兵するも、敗れてしまい
南方に対しては柔軟路線に転化することになった。
③旧南宋から反乱がおこり、その鎮圧に五年も要した。
④反乱鎮圧後、クビライは再度の日本遠征を計画するも
崩御し、計画は中止された。
結局、クビライの死後、元の国力は衰退し日本への侵攻は無かった。
なるほど・・・広大な版図とさしもの勢力を誇った元も
クビライの死後は衰退に向かい、日本への侵攻などは
考えられなくなったのですね。
では、「弘安の役」後の防塁は・・・
弘安の役後も再襲来に備えて、防塁工事や破損個所の
修復が続けられました。それらは御家人には大きな負担となり
ましたが、防塁の維持は鎌倉幕府滅亡の前年元弘2(1332)年まで続きました。
こちらは以前の生の松原元寇防塁
時間が来てしまって、「稲荷社」の説明が出来なかったのは残念でしたがそれにしても750年記念事業への期待がいやがうえにも上がる貴重な研修でした。